|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 世 : [よ, せい] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning
ナーシルッディーン・ムハンマド・シャー(Nasir ud din Muhammad Shah, 生年不詳 - 1394年、在位:1390年 - 1394年)は、インド北部を支配したトゥグルク朝の第6代君主。父は第3代君主のフィールーズ・シャー・トゥグルク。 ==生涯== 1384年、父フィールーズ・シャー・トゥグルクはその治世の晩年に病に倒れ、その息子ナーシルッディーン・ムハンマドと宰相ハーニ・ジャハーン2世が権力を争い、1387年にハーニ・ジャハーン2世を殺害した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。 こうした混乱の中、1388年9月にフィールーズ・シャー・トゥグルクは死亡し、その曾孫ギヤースッディーン・トゥグルク2世があとを継いだ。しかし、1389年にギヤースッディーン・トゥグルク2世は暗殺され、その叔父アブー・バクル・シャーが新たな王となった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。 ムハンマドは軍司令官やその部隊の支持を得、地方の大部分を制圧し、祖父フィールーズ・シャーの奴隷の支持を得、戦象を支配下に置いていたアブー・バクル・シャーに対抗しようとした〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。同年9月になると、ムハンマドは部下に父の奴隷は見つけ次第皆殺しにせよと命令した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。 しかし、1390年にアブー・バクル・シャーを支持していた奴隷が二派に分裂、一方はムハンマドをデリーに招いた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。アブー・バクル・シャーはデリーから逃亡、、ムハンマドはデリーに入城し、ナーシルッディーン・ムハンマド・シャーとして王座に就いた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。 1394年、ムハンマド・シャーは死去し、アラー・ウッディーン・シカンダル・シャーが継いだ。だが、同年にシカンダル・シャーも死亡し、間もなく宮廷勢力が2派に分かれ、それぞれ傀儡を擁立して抗争を始めた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.148〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナーシルッディーン・ムハンマド・シャー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nasir ud din Muhammad Shah III 」があります。 スポンサード リンク
|